LOGIN皐月 無垢は特に俺たちの様子を気にするようなことはなく、ゲートの前まで移動していく。
俺たちは整列するわけでもないが自然とそちらの方を向き、そして彼女の言葉を待つのだった。
「とりあえず……おはようございます。私は今日あんたたちを担当する、皐月。年上にした手に出られるのは気持ち悪いから敬称は省いて」
すでに明らかなことではあったが、彼女の口から直接「皐月」の名が語られることで場がどよめく。
夏山さんに至ってはそれを超えてほとんど魂が抜けたような表情をしていた。
皐月さ……皐月は、人数でも数えているのか無関心そうなまなざしを俺たちに滑らせる。
結局、全員見渡すまでその表情が変わることはなかった。
皐月はつまらなそうに小さなため息をつく。
「はぁ、まあ期待はしてなかったけど……やっぱりこの時期は不作だね。時間がもったいないからさっさと終わらせるよ」
その皐月の言葉に再び集まったメンバーはざわついた。
皐月のこの言葉が独り言ではないのは明らか、間違いなく聞かせるボリュームだった。
鹿間さんが皐月について語ったときの声色を思い出す。
そういうことだったのか。
研修メンバーの中の、金髪のガラの悪そうな兄ちゃんが我慢ならないといった様子で、一歩前に踏み出す。
「おいよ……お前さんよ、それはどういうことだよ? 喧嘩売ってんのか? なぁ?」
立場の壁すら超えての喧嘩腰、それに同調するように若者たちは続いた。
「そうだよ! 強ぇのかもしんねーけどさ、あんま人を舐めるなよ?」
「どうせ今まで周りからちやほやされてきたんだろうけどよ、俺たちはそうはいかないぜ? ガキがよ」
「どういう意味なのかちゃんと説明してみろよ!」
皐月の態度があまり良くなかったとはいえ、若者たちの沸点もまた低すぎる。
一人が沸き上がらせた怒りは瞬く間に伝染し、ガラの悪い少年集団をほとんど不良のように変貌させた。
俺の隣で夏山さんがつぶやく。
「はぁ、あの人たち分かってないなぁ……。無垢ちゃんはあれがいいのに……」
「え、あ……夏山さんはあの人の性格については知ってたんだ……」
「当り前じゃないですか! こうして名のある人になっても媚びないっていうか、芯のある感じが最高にかっこいいんですよ! あと顔がいい。すごく」
流石ファン、なかなかに好意的である。
というより盲目的……?
数々のオラついた言葉を受け止めて、皐月は心底めんどくさそうにため息をついた。
「はぁ、馬鹿なだけならまだしも素行も悪いとか……。よくいるんだよ、こういう時期に一発逆転を狙って滑り込んでくる馬鹿な奴らが。そんな奴らは大概スキルにも目覚めない。それに、慣れてくると大体顔を見ればわかるんだよ。この中からじゃ……三人スキル覚醒すればいい方じゃない?」
「このガキ……!」
「はいまずあんた。あんたは間違いなくスキルなんて手に入らないよ。一人が怒りだしたらそれに便乗して発散する腐った性根。そういう奴らにダンジョンで生きてく才能なんかないよ。大人しく堅実に生きてきな。ま、そういう生き方あんたみたいなのは嫌いでしょうけど」
「チッ……んなこた分かんねぇだろうがよ……!」
「だから分かるっつってんじゃん。ほかのチンピラも同じ、最初にわめきだした奴以外最低のろくでなしだ。まぁ言い出しっぺの奴も大概だけど……」
そうして若者集団の可能性を否定し一蹴すると、今度はこちら側に歩み寄ってくる。
そして一人ずつ指を指しながら……。
「モブ顔、モブ顔、モブ顔……。一つ飛ばしてモブ顔。基本的にこういうモブ顔の奴らはダンジョンクリーナーの才能無いから。あ、ステレオタイプの個性でアイデンティティ確立した気になってるチンピラどもも、しょせんチンピラAに過ぎないから。あんたらもモブだよ」
そう言われたチンピラたちはもれなく皐月を怒りのまなざしでにらみつける。
だがそれに反論するボキャブラリも無いようだった。
因みに一人ずつ指さしていた時、一つ飛ばされたのはなんと夏山さん。
皐月は夏山さんには何か感じたらしい。
そして俺にも……。
「あんたは……」
皐月は視力が悪いでもないだろうに、俺を指さしたまま目を細める。
既にモブ顔宣告は受けた後なのだが、一体どういうことなのだろう?
「あんたはモブ顔……だけど、妙な匂いがする」
「え……へ? 匂い!? 俺、く……臭い、ですか?」
「いや……臭いっていうか……なんか匂う……」
「臭いんじゃないですか……!」
その匂いとやらを確かめるつもりか、俺の顔を怪訝そうな表情で見上げたまま、さらに詰め寄る。
俺はそれにやや気圧されるかたちで後ずさった。
そして結局……。
「……なんだろう、分からない……。あなた、何……?」
「しらないですよォ、そんなの……」
お互いに疑問は解消されないまま皐月は俺から離れていった。
そうして無駄話は終わりだとばかりに、ゲートの前で腕を組む。
それを見ていると、突然わきから夏山さんに肘で小突かれた。
「いいなぁ~あんなに近くまで無垢ちゃんに来てもらえて! うらやましい~!!」
「な、夏山さんだって結構近くまで来てたでしょ……」
「それとはもうレベルが違うじゃないですか! 触れそうでしたよ?」
「触らないし! ていうかダンジョン潜ったら普通に触れるようなこともあるんじゃない? わかんないけど」
「かーっ! 水瀬さんも分かってませんねぇ! そういうんじゃないんですよ! 無垢ちゃんが! 自分の意思で! あそこまで近づいてきてくれたことがうらやましいんですよ!」
「は、はぁ……」
隠す気もなく……いやもとから隠しちゃいなかったが、オタク全開である。
誰もが少なからず皐月の性格に参っている中、夏山さんはただ一人とても楽しそうだ。
「ていうか夏山さん、モブ顔判定スルーされてましたね。良かったじゃないですか、少なくとも夏山さんには何か感じているみたいですよ?」
「そんなことより! あ~、私ももっと無垢ちゃんに近づいてきてほしかったなぁ……」
「そんなことて……」
こうして夏山さんとくだらないことを話していると、ゲート前で全体の様子をうかがっていた皐月が口を開く。
「さ、じゃあもうダンジョン入るから……今無駄にした時間の分だけ早く終わらせるよ。研修用の武器渡すから、一人ずつ取りに来て」
「ケッ……」
悪態をつきながらも、チンピラたちは武器を受け取りに行く。
渡されているのは艶のない黒色の刃物。
ナイフと呼ぶにはだいぶ大きいが、いわゆる剣というイメージからするとだいぶ短い。
つまるところ短剣といったところだ。
並べと指示があったわけでもないが、ややぐちゃりながらも列ができているのでそこに夏山さんと続く。
そしてついに……。
「いい? ダンジョンは最奥にいる核となっている魔物、いわゆるボスモンスターを倒すことで消滅する。道中ではもちろんあんたたちにも戦ってもらう。いかに弱かろうといかに馬鹿だろうと、死人は出さないから。無茶も許す。先行も許す。せいぜいなけなしの可能性にかけて頑張りな。あんたたちはちゃんと守る、仕事だから」
皐月はそれだけ言って、ゲートの複雑な色合いの光に触れる。
そしてその瞬間、彼女自身の体も光に包まれ……消えてしまった。
誰もがその光景に息をのむ。
威勢の良かった不良たちすら怖気づいていた。
そこで一歩目を踏み出すのは、なんと夏山さん。
「行きましょ、水瀬さん」
しかも俺を呼んで。
しかし、そう言われてやっと俺もためらいを断ちその先へ進むことができた。
いまのところ、皐月の言うクリーナーになれない人間の要素は悔しいがすべて当てはまってしまっている。
だから、そういう自分の弱さごと変えてしまいたいと思って夏山さんとともにゲートに触れた。
視界が光にあふれ、まるで地面が溶けたかのようにバランス感覚を失う。
転びそうになって手を突こうとするが、もうそこには地面も俺の手足の感覚もなかった。
しかし次の瞬間、俺の手のひらが冷たく湿った地面に触れる。
視界の眩しい光は幻だったかのようになくなり、俺の視界は岩石質の地面とそこに突かれた俺の両手を映していた。
顔を上げると、少し前でポケットに手を突っ込んでいる皐月と、隣でややふらつきながらもなんとか立っている夏山さんが見えた。
俺も恐る恐る立ち上がる。
それを見て、皐月は眉を持ち上げて言った。
「ま、こればっかりは慣れてもらうしかないね」
しばらくすると、また光とともに後続の人々が現れるのだった。
重力から引き剝がされるように、異次元へと飲まれる。既に慣れ親しんだ感覚がいつもより重い。しかしそれは錯覚に過ぎず、ただ俺の心の不安が体さえも重く引きずっているだけだった。 一呼吸が終わらないうちに、光の奔流から吐き出され視界がひらける。次の瞬間、俺は体育館の床を踏みしめていた。「待っていましたよ」 俺が皐月の姿を捉えるよりも早く、冷たい声が耳元をかすめる。その確かに聞き覚えのある声に、内臓が縮み上がるかのようだった。この感覚は……恐怖に他ならない。 先生、俺たちができるだけ出会いたくない相手……。そして……きっと会うだろうという予感のあった相手……。 その声に呼吸は凍てつき、しかしこうなった今その顔を見上げるしかなかった。「今度は体育館に直通ね……。ま、何となくそんな気はしてたけど……まんまと私たちは誘われてきたわけだね」 皐月は先生と、それからその傍らに立つ春の方を見ながらため息を吐く。ただ、そのため息に絶望や失望の感情はこもっていなかった。「そういうわけだから、お誘い通りちゃんと来てあげたよ……先生……?」「ふふ……」 皐月の視線を受けて先生は笑う。春はただ縋り付くようにその腕に抱かれていた。「まぁ、わたしとしては別にどちらでもよかったのですが……手間が省けましたね。どのみちそこの忌々しい男は殺しますが……あなたはその限りではないのですよ?」 先生はこんな事態に至ってもまだ”慈悲深い指導者”を気取っているのか、皐月に憐れむような眼差しを注ぐ。それに皐月は言葉でなく、ただ中指を立てることで答えた。 決して臆さない皐月の姿に勇気づけられて、俺も先生と春の方へ一歩踏み出す。そして一目で作り物と分かる張り付いた微笑みを睨みつけた。「なぁ、今外で何が起こってるか……知らないってことはないよな? あんた、いったいみんなに、春に、何やったんだよ……先生……?」「先生……この立場と呼び名に関しては気に入っていましたが……あなたに呼ばれると不愉快極まりないですね。あなたが我が物顔で生きているだけで、今この瞬間わたしの聖域で呼吸をしているだけで気分が悪くて仕方がありません。ですが、あなたも所詮憐れな人形……わたしが何をしていたか、教えてあげましょう。そしてその上で全てを奪い去ってあげましょう」 先生もまた、こちらに一歩踏み出し
春の背中を追って凍り付いた地面の上を走る。自身の体重が足元に響く感覚が希薄で、妙な感触だった。ただもう流石に慣れても来たので足を滑らせるようなこともない。「春っ……!!」 交わした言葉も、共有した時間も少ない。それでも俺の声できっとその脚を止めてくれるだろうとその背中に呼びかけた。「……っ」 俺の声はその背中にしっかり届き、春をこちらに振り向かせる。その瞳は俺と、それからその隣に居る皐月を映した。「よかった……」 俺の声に反応してくれたことにひとまず安堵する。春の歩みも緩み、ややつまずくような形で氷の上を滑る。その前のめりになって転倒しそうになる背中に手を伸ばした。「春……見つけられてよかった。春も分かってると思うけど……今起きてることは普通じゃない……それで……」「それで、あの”教室”へ向かうのはやめて。黒幕はあそこの……先生だから」 焦りや感情が先行してしまっていた俺の言葉に、皐月が淡々と付け加える。春はアスファルト上に張った氷に踵を踏ん張らせてぎりぎり転倒を免れる。そして……。「分かってる。分かってるよ……そんなこと」 その肩に届こうとしていた俺の手を、春は振り払った。そしてすぐに、こちらから視線を外して再び走り出してしまう。「ちょ、春……!? だからダメだって……!」 とっさに引き留めようと言葉を吐き出すが、もう春は俺の声に応じない。どれだけ力を込めたとしても中学生の少女の腕力、しかしその明確な拒絶は物理的に伝わってくる衝撃以上の痛みをもたらした。「水瀬、悪いけど気遣ってられないから……ちょっと乱暴するよ……」 突然の拒絶に思考停止状態に陥ってしまっていた俺とは対照的に、皐月は冷静に手を下す。皐月は走り去ろうとしている春の背に手を伸ばすと、手のひらの中心から放出するように氷の結晶を撃ち出した。そのままの勢いで春を貫いてしまいそうな氷の結晶は、しかし命中する寸前で網のように広がり春に絡みつこうとする。が……。「……」 瞬間、鋭い光が氷に包まれた路地で跳ね返る。枯れ枝のように、血管のように大気を焼け焦がす、稲妻。それは一瞬だけ眩く輝くと、密度の薄い煙になった。電撃によって砕かれた結晶が、散らばって凍った地面を滑る。それは俺たちのつま先にこつりとぶつかって、役目を終えたようにすぐに溶けてしまっ
ビルの陰から、通路の奥から……人の背丈の1.5倍ほどの怪物が這い出して来る。それらは少し前までは確かにここにあったはずの日常を瞬く間にむしばんでいった。どこかで誰かの悲鳴がする。その声すら搔き消すように、クリーナーたちの放つ攻撃が迸った。 皐月はその状況に退屈そうにため息を吐く。「はぁ……どいつもこいつも大したことなさそうな奴ばっか。そんなに面白くなさそうだね」「お、おい……そんなこと言ってる場合かよ……」「大丈夫……。ただ、いくら元人間って言ったって……少しくらいは痛い目見てもらうけどね」 皐月は俺の言葉にそう答えると、眼前で繰り広げられる戦場へと一歩踏み出す。そのつま先がアスファルトを叩いた瞬間、そこを中心に花弁が開くかのように地面が凍結していった。「……っ」 初めてちゃんと見る皐月の能力に息をのむ。凍結、という点では俺の使えるものとも同じだが……その影響範囲はこの数秒にも満たない時間で俺のものを優に超えていた。 地表を伝って広がっていく凍結はその結晶を成長させながら都市全域に広がっていく。その氷の結晶は魔物たちの動きを制する檻となった。「ま、足止めするってだけならこれで十分でしょ。あとは撃ち漏らしを個別に処理するだけ……」 幾分か寒くなった廃都近縁で、あまりにもあっけなく場を収めて見せた皐月は悠々と残りの仕事を片付けるために歩き出す。先ほどまで魔物と交戦していたクリーナーたちも、突如凍結した魔物を前にその手を止め、その眼差しを皐月に注いだ。「おい、あれって……」「皐月無垢、だよな……?」 惨状が一転、瞬く間に静寂に包まれた都市にクリーナーたちが口々につぶやく声が響く。「水瀬、ほら行くよ。まだ自由に動けてる魔物も居るはず、それに……まだ魔物になってない人も、まだまだ居るはず。ここはまだ安全とは程遠いんだから、気を緩めないで」「あ、ああ……分かった……」 皐月は周囲の人々の注目にうんざりしたような表情を浮かべ、少し入り組んだ路地の方へ逃げるように駆けていく。俺も数センチの厚さの氷が張った地面の上で滑りかけながらもその後を追った。「なぁ、皐月……あの魔物たちって、その……戻れるのか?」 残党を探す皐月の後ろに続きながら、尋ねる。皐月はそれ自体にはさして興味なさそうに「さあね」と答えた。「……でも、あの先生が
「……外が……」 まだ鹿間さんとの電話途中だが、少し外が騒がしくなってくる。皐月もそれが気になったようで、窓際に寄り下の景色を眺めた。『……すまない、水瀬くん……。ちょっと、こっちの方でも……対応しなきゃいけない事態みたいだ……。ちょっ……』 鹿間さんの方でも何かが起き始めているのか、電話に鹿間さん以外の不明瞭な声が割り込んでくる。その後『済まない、とにかく二人は……今は念のため外に出ないでいてくれ』とだけ言って、電話が切れてしまった。「あっ……」 いったい何がどうなっているのか。もう誰ともつながっていない電話をポケットにしまい、窓際の皐月に歩み寄る。そしてその肩越しに街並みを見下ろすと……。「なんだ……これ……」 朝の静けさの中にあった街の状況は、一変していた。「魔物だ……。それも、一体や二体じゃない」 皐月はホテルの外に広がる光景を冷静に言い表す。あの教室を除けばゲートすら存在していなかったこの廃都近縁に、多数の魔物が現れていた。大きさや姿はまちまち、ダンジョン内部の魔物に見られるような一貫性が……ここに突如として現れた魔物たちにはなかった。「あ、おい……皐月……!」 この状況を見るなり、皐月は部屋の出口へ駆け出してしまう。その肩を引き寄せようと手を伸ばすが、俺の指先はぎりぎり届かなかった。「待って、皐月! 鹿間さんが待ってろって……!」「知ってる。聞こえてた。水瀬は……言うとおりにしたいって言うなら、ここで待ってればいい。けど……結局私たちが何のためにここに来てるのか、やらなきゃいけないことが何なのか……後悔しない選択をした方がいいよ」「それはっ……」 一度は足を止めた皐月だったが、俺を試すかのような一瞥をくれると……いよいよ外へ駆け出してしまった。「それは……そう、だけどさ……」 ホテルの部屋のドア。そこを潜り抜けてしまえば、俺はおそらく……この混沌の渦中に放り込まれる。鹿間さんの命に背いてだ。今思えば……こういう時の皐月を引き留めるのも、鹿間さんが俺に期待した役割だったのかもしれない。 あのドアの向こうへ俺も行きたい。一度踏み出してしまえば、ある意味では……楽になれるのだ。けれど……。「……ふっ」 うじうじと得意でもないのに色々と考える俺が、少しばかばかしくなってくる。そうだ、この期に及ん
鹿間さんには、部屋で皐月と一緒に居たときに連絡をした。電話をかけたのは俺だが……実のところ状況の説明はほとんど皐月が行った。鹿間さんは……正直俺たちの報告には終始半信半疑といった感じだったが、なんにしてもすぐに対先生に動けるわけでもないのでひとまず後日にということになった。そして現在……。「……」 現在朝七時、不規則な生活リズムを強いられる今回の任務では珍しく……まだ早いうちから勝手に目覚めていた。いまいち気が休まらなかったようで、感覚としてはまだ昨日と地続きで日付を跨いだ感覚が希薄だ。 あの少年が俺たちのホテルを知っていた以上、先生もここを知っている可能性は十分あったが……結局ここを襲撃されるようなことはなかった。まぁ別にそればかりを気にしていたわけでもない。俺の頭の中を占めていたほとんどのことは、これからどうなるかということよりこれまでのことだった。 あの不思議な教室、春との出会い、先生の見せる夢……。特にあの夢、今でも曖昧ながらその内容を覚えているが……あの光景に覚えはない。しかし不思議と、心を動かされたのだ。あの時の感覚が、未だ胸に微かな言葉にしがたい感情を残している。 いろいろと経験した俺たちに鹿間さんから下された指令は「一旦待機」だ。しかしこうして部屋で一人思いを巡らせるのもなんだか気が滅入る。まるで水中から息継ぎをするかのようにカーテンを少し開いて外の景色を眺めると、昼間の活気に少し疲れた心を元気づけられるような気がした。「なんだかなぁ……」 ここに来てからずっと、何かが心に引っかかっているような感覚がある。結局、少年少女たちは……何を求めてあの教室へ行っていたのだろう?先生の夢に一度落とされた今……彼らの乾きに近いものを少し理解してしまったようで、それが俺の心をかき乱しているのかもしれない。 窓の外を何を見るでもなく見つめていると……。ガチャリ……。俺の部屋の鍵が、一人でに開く音がした。「……!」 まさか先生が律儀に入り口から「お邪魔します」なんてことはないだろうが、少し身構える。当然この部屋の鍵を持っているのは俺しかいない。この場合考えられる可能性としては……ホテルの従業員とかなんだろうが、なんにせよ今は状況が状況だから少し過敏になっていた。それに……従業員ならいきなりノックもなく解錠って
ホテルまで戻ってきた俺と皐月は、とりあえず俺の部屋に集まって今後について相談していた。俺は備え付けの机の椅子に、皐月はベッドの上に腰かけている。「それで……皐月的には……実際、あいつってどうなんだ?」「どうって……?」 あの教室の主であり、不可解な力を操る”先生”。目まぐるしく変わる状況の中でも一応確認していたが……やはり先生にインベントリは見られなかった。皐月が言っていたように、彼女はクリーナーじゃない。「俺からすれば……その、皐月ほど練度が無いから……具体的にあの先生がどれだけの脅威なのか分からないんだ。皐月が焦ってるみたいだったからなんかやばいんだなとは思ってたけど……」「はぁ……大人のくせに情けない……」「う、ごめん……」「別に謝られても……。でも、何回も言ってるけど……あれは人じゃない。魔物でもない。本当だったら……」 皐月はこちらに顔を近づけるように少し身を乗り出す。「本当だったら……たぶん私たちが近づいちゃいけない存在。生物として……根底からレベルが違う……」 皐月の語り方もあって、それはまるで怪談のようだった。そして、と皐月は付け加える。「……あの、私たちをここまで送り届けた……白髪の男もね……」◇◇◇「どうして彼らを逃がしたのですか……?」 荒れに荒れた教室の中、恨めしそうな先生の声が響く。先生は机やいすの散乱した床の上、砕けたガラス片がその身を傷つけるのも気にせずへたり込んでいた。その瞳は虚ろで、何も映さず、ただ虚空を見つめている。その虚空に……音もなく突然白髪の少年が姿を現した。「あーあ、こんなに散らかしちゃって……。……よっと……」 少年は倒れている椅子を起こして、それに腰かける。そうして先生を見下ろした。「分かってるでしょ、えっと……白さん、だっけ? ま、なんでもいいけど。あれで君が手を出してたら……死ぬのは君だったよ? 協定を忘れたわけじゃないんでしょ? だったら君も……”人の理”に準ずるべきだと思うけど? 一度は……君だってその条件を飲んだはずだ」「……ふざけないでください。あんな形ばかりのもの……誰が気にかけるというのですか? あなただって……いえ、あなたは……そうでしたね……」「そ、僕はそんなのどうでもいい。最初からね。まあそれなら協定を気にかけてるってことにもならないのかも